伏見の歴史

伏見地区は、「近鉄大和西大寺駅」南西エリアに位置し、大阪・京都・吉野・伊勢・名古屋へつながる鉄道交通の要衝・結節点にあります。
また、幹線道路の第2阪奈道路に接続し、自動車交通の点からも利便性の高い地にあります。
地区内には、奈良を代表する名刹である真言律宗 総本山 西大寺が鎮座しています。聖武天皇が発願した東大寺、その娘の称徳天皇(女帝で2度即位し孝謙天皇と呼称)勅願し建立された西大寺は、今も古の姿を保ちながら、悠々とわが地区にその威容を誇っています。
南都七大寺のひとつにして真言律宗総本山の寺院「西大寺」とともに歩んできた伝統・歴史・文化に富む地域で、さまざまな生活行事が西大寺に起因しています。
伏見地区は、そんな歴史ある西大寺とともに、豊かな歴史を積み重ねてきました。

伏見地区とその周辺の主なスポット

西大寺

真言律宗総本山の寺院。山号は勝宝山。南都七大寺のひとつ。本尊は釈迦如来。天平宝字8年(764年)、称徳天皇が鎮護国家のために四天王像の造立を発願したことにはじまり、翌年建立。創建当時は、東・西に高さ約45mの五重塔と百余の堂宇を数える壮大な伽藍を誇り、東の大寺・東大寺を父の聖武天皇が建立し、西の大寺・西大寺をその娘である称徳天皇が勅願したことから、東西で並び称されました。
平安時代、再三の火災で諸堂のほとんどが焼失しましたが、鎌倉時代に入り西大寺中興の祖とされる叡尊上人(興正菩薩叡尊上人)の造寺・造仏の尽力により、密・律双修の真言律の根本道場として生まれ変わりました。
このように、古代寺院と中世寺院の伝統を持つ西大寺は、1250年以上に及ぶ悠久の歴史と伝統を今に伝える、古都・奈良を代表する寺院です。
境内は国史跡に指定され、叡尊上人の御手植えや菩提樹が残されているほか、国宝である金光明最勝王経や大毘盧舎那成仏神変加持経などの奈良朝写経は、創建当時の威容を今に伝えています。
また、国宝の叡尊座像、本尊の釈迦如来立像、中黒秘仏愛染明王坐像、興正菩薩坐像、重要文化財の文殊菩薩騎獅像と四侍者像のほか、塔本四仏坐像、吉祥天立像、十一面観音立像などの仏像、国宝の十二天画像などの仏画・肖像画、金銅宝塔、鉄宝塔、金銅透彫舎利塔など舎利塔や密教法具などの寺宝を多数所有し、今も参詣する人が絶えない大寺です。
勝宝山 西大寺

近鉄「大和西大寺駅」

近鉄奈良線と近鉄京都線、橿原線が乗り入れており、大阪難波駅、近鉄奈良駅、近鉄京都駅と各市の中心市街地に一直線で行ける、東西南北の4方向に近鉄の路線が伸びる、奈良の一台ジャンクションです。観光特急「しまかぜ」を含むすべての列車が停まります。
平成21年(2009年)より、橋上コンコースが拡張され、スーパーマーケット、ベーカリーカフェ、ドラッグストアなど、「スイーツ」「惣菜」「奈良」がコンセプトの店からなる駅構内ショッピングモール「Time’s Place Saidaiji」が開業し、同時に展望デッキも設置されています。
令和3年(2021年)には、南口の駅前広場が完成しました。

大和西大寺駅
近鉄大和西大寺駅(南口)

西大寺八幡神社

西大寺の西方に鎮座する西大寺八幡神社は、国の重要文化財に指定されています。境内には拝殿が存在しないことから、大きな本殿の全体像がよく見わたせるという、全国でも珍しい空間となっています。
参道には2つの鳥居があり、特に二の鳥居は、新池からの小川をまたぐ花崗岩の一体造石橋とともに、西大寺八幡神社で最も古い建造物とされています。
鎌倉時代の延応元年(1239年)1月16日、西大寺・中興の祖である叡尊上人(興正菩薩叡尊上人)が、参詣された人々に社頭で湯茶の大振る舞いをおこなったのが、今日の西大寺に伝わる大茶盛の起源といわれています。(令和3年1月15日、大茶盛の由来となった献茶式が、約150年ぶりに松村隆譽長老によっておこなわれ、古来のかたちを復活させることで、ともに味わい心を一つにする「一味和合」の精神を伝えました)
また、享保17年(1732年)12月18日の夜に芝村で大火災が発生し、神社に古くから伝わる能面が焼失した際には、西大寺より宝蔵にあった能面3面を譲り受けるなど、西大寺とのつながりは強く、明治期に神仏分離が図られるまでは西大寺の鎮守社としての機能を有し、その創建は西大寺の創建期と同じく奈良時代にまで遡るとされています。
現在は、氏子で組織された左座(あんざ)と右座(おうざ)の大人・中座が中心となって氏子神主を交代で担い、氏子を挙げて愛宕山詣りや灯籠巡回などの年中行事や祭祀の運営、清掃管理など、鎮守の文化を絶やすことなく、継承に取り組んでいます。
西大寺八幡神社

十五所神社

十五所神社(じゅうごしょじんじゃ)は、近鉄大和西大寺駅の北西側にあり、名前の通り非常に多数の祭神を祀る神社で、西大寺の鎮守神として近隣にあった小さな神社をまとめたものと言われています。芝町1にはたくさんの氏子がいます。
現在は社殿と2つの末社を留めるのみですが、かつては多数の社殿が並んでいたともされています。

菅原天満宮

菅原道真公とその祖先をまつる日本最古の天満宮。菅原家発祥の地、菅原道真公生誕の地と言われ、道真公の神徳にあやかり、試験合格・学徳向上の祈願や文筆にいそしむ人々に厚く信仰されています。境内には筆塚があり、毎年春分の日には奈良筆まつりと筆供養が行われます。 また、梅の時期には毎年「盆梅展」が行われ、丹精込めて育てられた古木や巨木、希少品種の黄金梅等からふくよかな梅の香りが漂います。
菅原天満宮

菅原天満宮
菅原天満宮

平城宮史跡

平城京は、今から1300年ほど前に、現在の奈良市につくられた都です。平城京を中心に、律令国家としてのしくみが完成し、天平文化が花開きました。平城京を中心とした74年間は、奈良時代と呼ばれています。
国営平城宮跡歴史公園

喜光寺

奈良時代の高僧、行基菩薩が養老5年(721)に創建。東大寺大仏建立のための布教活動の拠点とした寺です。また、行基菩薩はこの寺で入滅したと言われています。本堂は、東大寺造営の際の大仏殿の雛型として建てられたとの伝承から「試みの大仏殿」と呼ばれています。
蓮の名所として知られ、6月中旬~8月中旬には250鉢の蓮が境内を華やかに彩ります。
喜光寺

喜光寺
喜光寺

伏見地区の歴史

三輪神社と疋田村のこと(参考『伏見町史』)

大正14年(1925年)12月に建立された石鳥居と弘化3年(1846年)に建立された左右一対の石灯籠

疋田の集落から西北へ少し離れた場所に、三輪神社(奈良県奈良市疋田町525−8)が鎮座しています。言うまでもなく、大神神社の御分祀で、御祭神は大物主命です。
広い樹林に覆われた境内は三輪の神を祀るのに相応しい土地で、神社の東側には古い街道が南北に通っており、その街道に沿って大きな石鳥居と左右一対の石灯籠が鎮座しています。石鳥居は氏子中によって大正14年(1925年)12月に建立されたもので、左右一対の石灯籠はさらに古く、弘化3年(1846年)に建立されたもので、「三輪社」「産土神」と刻まれています。
割拝殿の向こうには1間に2間の小さい拝殿があり、大正14年(1925年)の建築。付近に立つ4基の石灯籠には、それぞれ、天明元年(1781年)、文化元年(1804年)の刻銘があります。
瓦葺の神門を中心に立つ巨樹の大杉は本殿に代わる神籬(ひもろぎ)(注1)の役割を果たしており、そのことから、このあたりは昔から人の立ち入らない神域であったと伝わっています。また、大樹の前に1基の低い灯籠があります。
明治8年(1875年)の図面を見ると、今の拝殿や神饌所はまだ建てられていません。

慶応3年(1867年)の『大和国添下郡疋田村明細帳』に「宮座家数当村八捨四軒有之内、三捨三軒に候」とあり、さらに神主一人一老、宮年寄五人、老分役と記されています。古老の談によると、明治の初めごろまでは、宮座の組織がありました。新座古座に分け、年長者を一老二老三老といい、一老は神主となり、供饌、点灯などの神事を司っていたとのことです。今はこの制も全廃され、別に講ができたと言います。

割拝殿

三輪神社は疋田一村を氏子とし、村人の信仰はことに篤かったと伝わっています。明治前後の疋田村は奈良瀑(さらし)づくりの中心であったことから、経済的にも恵まれた時代がありました。
神社の運営や境内の整備も、こうした力によるところが少なくなかったようです。
また、織物を数える単位の「疋」(注2)が、疋田町の町名由来ともなっていることから、いかに奈良曝づくりが盛んだったのかが伺えます。
なお、元旦祭は1月1日、三月座は3月1日、秋祭りは10月初旬、新穀祭は12月1日に執行せられます。

参考:『伏見町史』
(注1)神籬(ひもろぎ):神社や神棚以外の場所で祭祀を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるもの
(注2)疋:織物の単位で、2反(たん)で1疋と数える。1反は着物を1着仕立てることのできる長さのことを言い、素材によって違うが11m~12mくらいの長さ。

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